「ゆとり教育」をめぐって考えること | ~人とコトバ~

「ゆとり教育」をめぐって考えること

トラックバックステーションのお題になったので、是非とも一言!

 

東を向けば「西はどうなる」と言われ、西を向けば「東はどうなる」と言われる。 世の常。

「ゆとり教育」の前は、量が多すぎて、表現は良くないがいわゆるおちこぼれがたくさん出た。それに伴い、家庭内暴力校内暴力が大変な社会問題になった。 もう忘れられてしまったのか。

 

戦後日本の高度成長を支えてきたのは、江戸の寺子屋時代から一般民衆に広く与えられた「読み・書き・計算の基礎学力」だと言われている。 確かに、世帯の経済力に拘わらず、公教育によって等しく全てのこどもたちに学びの機会を与えてきたのは、よかった。

 

しかし人は、顔も違う。背格好も違う。性格も違う。もちろん、頭の中も違う。 「等しく」というと聞こえはいいが、消化能力の違う者に同じ物を与えていいのだろうか。 赤ちゃんと大人に同じ量の食事を出したらどうなるのか。 赤ちゃんに合わせた量なら大人は「足りない」と言い、大人に合わせた量なら赤ちゃんは食べきれず、無理矢理食べさせれば消化不良になる。 食事を作る人が一人しかいなければ、手が足りないから、個人に合わせた量の調節はできない。 それなら量をどちらかに合わせるしかないのか。 

 

違うと思う。 量を調節する人手を増やせばいいのだ。 「ゆとり教育」の是非では、量が多いとか少ないとか、そればかりが取り上げられ、実際、多くの親たちが、学校で扱う内容が減ったことで自分のこどもの学力が低くなることを非常に心配し、内容を戻した方がいいと考えている。 (量が増えても自分のこどもは必ず消化できると信じているということだ。 人前では 「うちの子、出来が悪くていやになっちゃう」 などとばかり言いながら、内心、優秀だと思い込んでいるということか(笑)。) 

 

少子化は深刻な問題だ、とか、理数系が弱くなって、教育を何とかしないとこのままでは日本の将来が危うい、とか、わあわあ言われながらも、こどもたちの学級は依然として一クラス40人。 授業参観で見る教室の風景は何十年も前と変わっていない。 唖然とする。 ティームティーチングや少人数指導が若干取り入れられてはいるが、それが今だに、すごく先進的な取り組みだと映る現状は情けないとしか言いようがない。

 

指導者が能力の違う個人に目を行き届かせ、能力に応じた効率的な学習をさせるのであれば、内容が何であれ、クラスの人数減らすことが最優先だと思う。 学習量を短期間で増やしたり減らしたり、そんな無駄な手間と予算を、教員の数増やすことに回したらどうだろう。 

 

長年、語学教育現場で働いてきたが、クラス学習の場合、一クラスが10人か12人か、或いは20人か23人か、では全然雰囲気が違う。 目の届き方も違う。 一人の発言できる機会も違う。 語学の場合は特に少人数であるメリットが大きいが、他の教科でも重要なことは間違いない。 

 

例えば中学の英語。 昔と違い、教科書の内容は「会話中心」「会話重視」になっている。 しかし、30人、40人のクラスで会話の練習などできるわけがない。 結果的に、教科書内容は会話を中心に組み立てられているもののそれが活かせる授業にはならず、かといって文法をしっかりやるわけでもなく、という極めて中途半端なことになっている。 クラス人数の問題を考えずに、学習内容だけをあれこれ議論して生まれた結果の見本だ。

 

赤ちゃんと大人という例えに、ムッとする人がいるかもしれない。 勉強を大変だと感じる子を赤ちゃん扱いするのか、と。 でもよく考えてみよう。 赤ちゃんはたくさん食べられない。 当然だ。 それを悪いことだと思う人はいるだろうか。 たくさん食べられるかどうか。 これは、多くの尺度の中のたったひとつにすぎない。 赤ちゃんには、大人がかなわない素晴らしいところがたくさんある。 

 

学力面で上か下か。 これは人を測るほんのひとつの尺度でしかない。 公教育で一律の内容を与えることは、学力偏重を生んできた。 デキル子が評価が高く、デキナイ子は評価が低い。 そもそも、そういう風潮を改めて、こどもにいろいろな能力をつけさせることが「ゆとり教育」の理念ではなかったのか。 どうも、弊害が取り沙汰されるにつれ、量が減って学力が下がるということばかりが言われるようになってしまった。

 

公教育は、必要最低限の教育だ。 未来の日本の頭脳となる素質のある子は、学校の中で十分対応できないのなら、公立学校とは別のところでどんどん能力を伸ばすことができるように、環境を整える。 これも国の仕事としてすればいい。 

 

そして、学力によって選ばれし一部の者を、「え、じゃあうちの子も頑張らせよう」と誰も彼もが追わず、その子なりの学力とは別の能力を見いだし、評価・尊重する。 こどもひとりひとりが幸せになれる教育を考えるには、何よりもまず、どんな能力も等しく尊重できるという私たちの意識改革が必要。 「まずは学力」という、もしかしたらDNAに組み込まれている(!?)意識から大人たちが自由にならない限り、あるべき教育の姿など議論できないのではないか。

 

私は「ゆとり教育」に全面的に賛成しているわけではない。 でも、今の是非論は、どこか焦点がずれている。 なぜ、今までの流れがるのか、本当に必要なのは何か。 今、こどもを持つ親、 こどもがいなくても、将来その稼ぎによって年金をまかなってもらう現在の現役、みんなで考えたい。 一番迷惑しているのは、大人の決めたことで、あっちになったりこっちになったり翻弄されているこどもたちなのだから。