ゴムの時間
インドネシアには、JAM KARETということばがあった。
JAMは「時間」、KARETは「ゴム」。 つまり、「ゴムの時間」。
いくらでもビヨ~ンと伸びる時間。 ずれても気にならない約束。
時間にルーズなことを外国人が軽蔑的に指摘していたわけではなく、彼ら自身が自嘲的によく言っていた。
さすがに今では社会情勢も変わり、それで構わないと思っている人は減っているようだが、インドネシアに限らず、日本以外の国では時間の観念の違いを痛感することが少なくない。
乗り物の時間も然り。
日本の秒刻みの列車ダイヤは驚異的だ。
でも、毎日乗っていると、それが驚異的なことであることを忘れてしまう。
時間通りに来るのが、当たり前になってしまっている。
最近の悲劇的な事故とともに航空会社と鉄道会社の問題が注目を浴びている。
もちろん、乗客の安全管理を最優先させていなかった会社の非は免れない。
でも、一方的に会社を非難することができない気持ちになる。
なぜ会社が時間通りの運行に、そこまで拘るのか?
我々は、飛行機や電車が遅れると、怒る。
安全が優先されているためなら仕方ない、と考えていただろうか。
昔、こんなことがあった。
海外旅行の飛行機が点検で遅れ、予定していた乗り継ぎができなくなった。
ただでさえ一晩のロスだった。
それなのに、最善の乗り継ぎ便は満席で乗れないと言われ、カウンターで猛烈に抗議した。
抗議の甲斐あり、最も早い乗り継ぎ便を確保できた。 外国便だった。
しかし、その便も点検で遅れ、結局、抗議して無理を言わない方が早かったのに、という結果になった。
これだから外国便は… と、もはや怒る気力さえなくなっていたが、腹立ちばかりが残り、その点検のおかげで安全な旅ができたなどとは微塵も実感しなかった。
我ながら浅はかな利用者の代表だ。
正確さを求める利用者の期待に応えようと、会社が無理をする。
無理は、利用者にとって実感できないため、無理の上に成り立つ状態が、利用者にとって「普通の状態」になる。
「普通の状態」を保つため、会社がもっと無理をする。
最悪の循環だ。
時間のことに限らない。
停電のところに書いたが、便利さについては全て同じではないだろうか。
安全や真の豊かさを手に入れる替わりに、便利さを手放す。
その心構えがあるか。
問われている気がする。