旅と乗り物7
オーストラリアをレンタカーで回ったことがある。
地図を見ながらコースを決めたのが間違いだった。
シドニーから出発し、オーストラリア全体の地図の中では、ごくごく一部(数センチ分)を回っただけ。
しかし、恐ろしく距離があった。
移動の日は、行けども行けども同じ景色の道を、何時間も走り続けなければならないはめになった。
交通ルールで感心したこと。
ほとんど対向車には会わない状況で、制限速度というものはなかったような気がする。
そのかわり、カーブでは、「時速何マイル」という標識があった。
その数字通りにスピードを落とせば、ちゃんと曲がれる。
落とさなければ曲がりきれない。
当たり前のことだが、とても明快で合理的だと思った。
日本の道はどうだろう。
どこの道でも「制限速度」なるものが表示されているが、誰もそんなスピードを守っては走っていないという道の多いこと!
それでも捕まれば罰金だ。
なぜだろう。
数字に余裕を持たせすぎではないだろうか。
例えば、本当に危険なのは時速80キロ以上だが、余裕を持たせて「40キロ制限」。
ぎりぎりに設定しておくと、それが守られなければすぐ事故になる。
だからちょっと余裕を持たせて、少し超えてもすぐには危険な目に遭わないように…?。
親切? おせっかい?
その結果、守られないことが常習化。
自分や他人を守るためにルールがある、という意識も薄くさせている。
これは、こと道路交通法の話にとどまらないと思う。
文化の違いを示唆しているように感じる。
日本の電車の中のうるさいほどのアナウンス。
「急ブレーキで思わぬ怪我をされる場合がございます。つり革にお掴まりください」
警察のキャンペーン。
「自分の命を守るため、シートベルトを必ず締めましょう」
どちらも、言われなくてもだれでもわかっていることだ。
こういう注意は、他人の迷惑にならないようにせよ、という注意とは違う。
守らないことで損をするのは本人なのだから、しつこく言う意味も効果もない。
本当の締め切りは5日後だけれど、余裕を持たせて3日後。
そんなことが溢れているから、言われる方も、それがぎりぎりの数字だとは初めから捉えない。
言語の表現も同じかもしれない。
日本語には曖昧な表現や、婉曲表現が多い。
「あしたまでにできますか」と聞かれたら?
絶対無理だとわかっていても、「すみませんが、できません」とは答えない。
「う~ん、一応やってみますが、難しいかもしれませんねえ。」
余裕を持たせる文化。
道路標識もその違いが表れているのかな、とカーブを曲がりながら考えた。