~人とコトバ~ -5ページ目

習慣の違い

hana

 

 外国の人やものと関わっておもしろいことは、いろいろあるが、よく取り上げられるのは文化の違いだ。人は誰でも、自分の常識は世界の常識だと思いがち。そうではないと気づかされる出来事を、カルチャーショックと呼ぶ。そういう出来事に出会わない限り、自分の常識は世界の常識であり、そう思い込んでいることには何の罪もない。問題は、その手の出来事に出会ったとき、どうするか、である。

 

「あ、これは自分と違う!」

 

その違いを違いとして冷静に受け止め、尊重する。これが異文化理解、と言っていいのではないだろうか。尊重するというのは、無条件に受け入れたり、相手に合わせたりすることではない。それを取り違えると無理が生じて、ストレスになり、結局「理解・尊重」どころか、相手の人や国が大嫌いになってしまったりする。

 

例えば、よく挙げられる食文化。日本人は箸を使う。インドネシア人は右手にスプーン、左手にフォーク。または、右手の指のみ。

 

「えー!手で食べるなんてキタナーイ」

 

などと言わずに、おもしろいからやってみる。すると、道具を使うよりもよほど難しい。彼らは、ごはんとおかずを上手く混ぜてパッと口に入れるが、そんなに簡単にまとまらない。かたまりを口に入れる前に崩壊して、ポロポロ、ポロポロ。 「キタナーイ」と笑われてしまうこと間違いなし。

 

おもしろがってできるのは数回。相手がこうして食べるのだから、と、辛いのに無理していたら、そのうち「こんな食べ方しかしない人たちなんかキライだ」などという気持ちにエスカレートしないとも限らない。もちろん、慣れてその方がおいしいと感じられるようになれば、そんな幸せなことはないが。

 

彼らも、自分たちの習慣を強要したりはしない。でも、相手の習慣をお互いが知り、「へえ、こうするんだ」と認めること、それが大切だ。欧米人に箸を使わせてニヤニヤおもしろがるのは止めよう。

 

違いを認め、冷静に受け止める…とはいうものの、感情的に難しいことも多い。

昨日の新聞に出ていた記事。ブラジル在住の記者が書いたものだ。

 

「ブラジルに住んで、未だに慣れないこと。それは、かかってきた電話をとると、「あなたはだれ?」と聞かれること」

 

私も、インドネシアでまったく同じ経験をした。いつも腹が立って、「あなたこそだれですか」と聞き返していた。でも、この記者は偉い。

 

「これには何か理由があるはずだと思って調べたら、昔は回線状態が悪く、別の相手につながってしまうことが多かったから、こういう習慣になってしまったそうだ」

 

とある。それは知らなかった。たぶん、インドネシアも同じだろう。理由があるはず、などとは考えもせずに、失礼な習慣だと断定していた私は異文化理解が足りなかった。でも、記者は続ける。

 

「理由がわかっても、やはり腹が立つので、「そういうときは自分から名乗るものですよ」と静かに話している」と。

 

尊重は難しい。もっとも、敢えて尊重する必要のない習慣だとは思うが。

 

語学と歌-QUEEN

queenII

 

 20世紀の天才のひとり  フレディ・マーキュリー  そして  QUEEN

 

無人島にひとつだけ持っていけるとしたら、何を持っていきますか。

もちろん、QUEEN のCDでしょう!

電源はどうする?

CDを眺め、曲名を見ているだけで頭の中をすべての曲が流れるので、電源は要らない!

 

中学生のときに虜になり、明けてもくれても聴いていた。意味のわからない単語ばかりだったが、ひたすらレコードに合わせて歌っていた。ものすごく速い曲も、歌えるようになるまで歌った。最初の英語の先生は誰だったかと聞かれれば、躊躇せず「QUEENのアルバム」、と答えたい。 なぜなら、浴びるように聴き、夢中で真似をするというモデリングが、期せずして英語という言語のリズムを習得する道具になったからだ。当時覚えた曲は、ん十年経った今も全然忘れていない。最近覚える曲は…忘れる前に、覚えるところまで行かない(>_<)…

 

QUEEN Ⅱ の B面 blackside の壮大な組曲。 あれを聴いて雷に打たれたような衝撃を受けた同世代は多いはずだ。ポエティックな内容と美しくゴージャスなハーモニー。今でも聴くと体中に力がみなぎってくる。こどもに、「オバサンのくせにうるさいなあ。恥ずかしくないの?」と煙たがられながらも、やめられない。もっとも、この辺の曲は、もともとある程度元気なときでないと聴けない。疲れたときは、Good old fashioned lover boy 、Spread your wings,  Bring back that Leroy Brown…

きりがないので、この辺でとめておこう。続きはまた別の機会に。

 

ことばと音のところで、言語特有の発音やイントネーションについて書いた。新しい語学を始めたとき、とても大切なのは、リズムを感覚的につかむことだ。それには歌がもってこいだ。

 

例えば英語は強弱アクセント。日本語は高低アクセント。昨今、日本でもマザーグースが流行だが、英語圏の幼児はあのナーサリーライムに親しむことが、母語習得の大切なステップだ。

 

ラップもリズムが気持ちよい。あれが歌えたらすごいが、若い方は是非挑戦してみるとよいと思う。年をとってからではできない!(もっとも、洋楽には若い女の子が歌うのにそぐわない歌詞も多いので気をつけないと。)日本語のラップも楽しい。従来、日本にはコトバ遊びを取り入れた歌というのはなかったのではないだろうか。よく思いつくなあ、と言いたいくらい、うまく韻を踏んでいる。あまり多いと飽きるけど…。

 

若いときは特に、ものを覚えるのに活字は要らない。歌を覚えるのも、歌詞カードは要らない。見ても、そのとおりに全ての単語は聞こえてこないから、妨げになるだけだ。

 

若くなくても、文を暗記するより歌を覚えて歌う方がずっと楽しい。

語学と性格2

語学と性格のところで、ふたつ挙げた。

 

①好奇心と関心

②つきつめない性格

 

続き…

 

③社交性・社会性

 

受験でとにかく点数を取りたいとか、語学を学問として研究したいという場合を除き、聴くこと・しゃべることで上達したいと思ったら、社交性は欠かせない。いろいろなタイプの人に日本語を教えてきて、つくづくそう感じる。人なつこく、話し好きで、人あたりのよい人は、習ったことばで話しかける相手がすぐ見つかる。当然話す機会に恵まれ、上達する。

 

それに対し、同じクラスで勉強していても、筆記で点数をとることに満足する人は運用力がつかない。こういうタイプの学習者は、隣の席の人と話す練習をする、という場面でも、必要最低限のことをしたら「終わりました」と言って、あとはだんまり。社交性のある人は違う。自然と話を膨らませて楽しみながら会話ができる。

 

これは、社会経験も物を言う。若い学生は、吸収力が高く、単語や文法をすぐ覚えるが、自分で話題を見つけ、または、自分が話せる話題の方へ相手を引き寄せて会話を続けるという能力に欠ける。反対に、30代以上の社会人は若い学生のようにどんどん新しいことを覚えることはできないが、その点を社会力でカバーできる気がする。だから、例えば、日本語を勉強し始めて3ヶ月の20歳前後の留学生と、30代以上の企業研修生を比べたら、若い留学生の方が圧倒的に日本語のレベルは上だが、研修生の日本語はたどたどしくてもすごく会話が楽しめる場合が多い。

 

こどもが母語を習得する場合は、耳から入った情報を材料にして無意識に文法規則を体系化し、いつの間にかしゃべれるようになってしまうが、およそ10歳を過ぎると、そうはいかない。大人の場合は、もちろん歳がいっているほど、難しい。

 

小学校にも、英語が入りつつある。早期教育も盛んだ。親が、自分が英語が苦手だったため、こどもには早くから習わせて、将来外国の人と自由に話せるようになったらいい、と夢描く場合も多い。では、どうすればいいか。カギはずばり「社交性」だと思う。広く言えば、新しい環境に飛び込んでいき、人間関係をうまく築くことができる能力。この能力は、大きくなってから慌ててつけようと思ってもできないのだ。

 

小学校低学年のうちに英検3級や2級をとることが「すごい」と思う人も多いようだが、どういう意味があるのだろう? 若ければ、吸収する。詰め込むのは簡単だ。でも、友達と遊んだり、他の交流活動に関わったりすることで社交性を育む貴重な時間を犠牲にしていることに気づかないのは恐ろしいことだ。得るものには目がいく。失うものには、すぐには気づかない。

 

こどものインドネシア語習得2

前回、長男を登場させた。名前をモニェにした。インドネシア語のわかる人は意味がおわかりだろう。こどもにこんなニックネームをつけるなんて…と思われると困るので弁解を。

 

ガジャ、シンガ、ブルン、モニェ、ブンガ

 

「この中から選ぶとしたらどれがいい?」

 

「モニェってかっこいい」

 

即決。

こどものインドネシア語習得

当時、生まれて3ヶ月の長男~モニェ~をジャカルタに連れて行き、2歳3ヶ月まで過ごした。

家には、運転手と夜警、お手伝いさんとベビーシッターがいた。

こう言うと、普通の日本人は、すごく豪勢な生活だと思うだろう。

しかし、日本人は家の中で人を使うことに慣れていない。

いろいろと気苦労があり、結局、全員辞めさせてしまう日本人もいる。

  

気苦労はありながらも、家の中で現地のことばが使えるというのは、語学の上達にはもってこいの環境だ。おもしろかった。

インドネシアの人はこども好きだ。ベビーシッターなどという名前がついていなくても、皆、小さいこどもの面倒をよく見てくれる。ものぐさな私は、これ幸いと、めいっぱいその恩恵にあずかった。

 

当然、長い時間をいっしょに過ごす人のことばを、こどもは先に覚える。

こどもが喋り始めたとき、出てくることばはインドネシア語の方が多かった…。

 

1歳になる頃、わたしがモニェを置いて出かけようとすると、お手伝いさんの腕の中で言う:

 

  「モニェも行く!」

 

うわあ、しゃべった! 

はじめから単語でなく、文でしゃべるなんてスゴイ!

 

しかし、あとからわかった。 これは日本語ではなかったのだ。

 

  Monye mau ikut 

 

mau は 「~も」、 ikut は 「ついていく」 という意味だが、発音は「~も行く」とそっくり。

笑ってしまった。

 

その他にも、優しく話し好きの4人から、浴びるようにインドネシア語を聞き、モニェはどんどんことばを覚えた。

 

わーい、うちの子、バイリンガルだ。

 

2歳過ぎで帰国したとき、日常必要な会話は、日本語・インドネシア語、どちらでも用が足りるようになっていた。帰国後、実験を兼ね、毎日インドネシア語で話しかけてみたが、モニェからはだんだん出なくなり、とうとう全く話せなくなった。

 

その間、たったの2週間であった。

 

語学と性格

4月。   新しい語学を始める人も多いだろう。

私が今まで関わってきた様々な経験から、「語学に向いている性格」を考えてみたい。

こどもに英語を、と思っている人にも大いに関係のあるテーマだ。

「語学」と一言で言っても、人によって目的が違う。

 

受験、仕事、翻訳、通訳、趣味、留学、…

  

目的により、必要な努力の程度や方法が違うが、そこはあまり深く考えないことにする。

 

①好奇心と関心

 

 インドネシアに住んでいたとき、「日本語で用が足りれば最高」と考えている日本人が周りにはたくさんいた。せっかくの海外生活でも、日本人社会にどっぷりつかったまま帰国を待つことは可能だ。特に、家族として旦那さんの赴任についていった場合。

 

現地の食べ物は口に合わないといって手を出さない。こどもが口にするものはお手伝いさんに触らせない。習い事はやってみるけれど、日本人の奥さん友達とお喋りするのが楽しみ。

 

そこまで極端でなくても、「ことばは最低限の用が足りるようにマスターできればよい」 と、始めから考えている場合、ほとんど上達しない。しかし、本人は上達しないのはその意識が原因だとは露ほども思わず、「やっぱり私って語学が苦手なんだわ」と思い込んで満足する。

 

語学上達の必要条件は、そのことばを使って外国の人と話してみたい、その地域のことをもっと知りたい、と思う好奇心だ。

 

②つきつめない性格

 

私は、日本の企業で技術研修を受ける社会人に日本語を教えてきた。

彼らは、研修で必要な語学力を身につけることを要求される。

若い学生と違い、既に座学から離れている彼らが新しい言語である日本語を使えるようにするのは、並大抵な努力ではない。

研修生の中には、いわゆる理系の人と、文系の人がいる。

どちらが上達するか。

これは一概には言えない。

特に、文型を易しい順に積み上げていく初級レベルの場合、文法規則を機械のように性格に覚えて、理屈通りに組み合わせて使えれば、非常に短い期間で驚くほどいろいろなことが言えるようになる。こういうことは理系の人の方が得意だ。

 

ITで脚光を浴びるインド。インド系の人たちはとても理屈っぽい(笑)。実際、おそろしく数学的な「脳力」を持っている人が多いそうだ。そういうインド系の人たちは語学にも堪能だ。

日本語のクラスが多国籍の場合、インドの人が入っていると、群を抜いて上手い、ということが多い。(たまに、そうじゃないこともある…。)

 

しかし、一般的に、語学は文系科目であり、理系の人が「苦手」と言うことも多い。初級を過ぎると、法則通りに行かないことが増える。

 

「どうしてこうなるんですか?」 「どうしてって言われても…」

 

もちろん、教師の説明が下手で納得できないのは論外だが、そうではなく、アバウトなことが語学には多い。そういうときに、

「う~ん、なぜだろう…」

と考え込んで前に進めない人は語学では損をする。

「よくわからないけど、ま、いっか」

と、そのまま前進できる人は、得をする。もっと進んだ段階で、後から感覚的に納得できるようになることもたくさんあるからだ。

 

 

 

ことばと音 2

…続き

前回は中途半端で終わった。

消えると怖いので、即、公開。

 

ハングル語と言えば、昨今の韓流ブーム。

高校生の頃、ニュースで韓国語が流れると可笑しくて仕方なかった。

なぜ?

 

ハングル語のイントネーションは日本語ととても似ている。

発音は全然違うが、音をわざとぼやかして聞き取れないようにして、抑揚だけ聞いたら、外国語だとは気づかないだろう。

ぼんやりとニュースを聞いている。

「ん?  この人、何て言ってるのかな?  やだ、日本語じゃないじゃん!!」

それが可笑しかった。

  

イントネーションで言うと、なぜか、広東語が大好き。

広東語と言えば、香港。  香港と言えば、ジャッキーチェンでお馴染み、香港映画。

あの、何とも言えない可笑しさは、わたしにとって広東語のイントネーションと切り離せないものだ。

  

   ソ・レ・ソ・レ・ソ・レ・ファ・ソ   または、  ソ・レ・ソ・レ・ソ・レ・ファ・ラ・ソ

  

音符で表すとこんな感じだろうか? ちょっと違うな。

しかし、この文末の微妙な曲がり具合が いい。

広東語の内容は、全然わからない。しかし吹き替えでは、私にとっては 可笑しさ半減。

北京語で作られたものでも、可笑しさ減少。

なぜそう感じるのだろう。 香港の人は、このイントネーションでまじめな会話もしているのだから、「広東語のイントネーションは可笑しい」などと言ったら怒られそうだ。名誉のために補足すると、可笑しさの他に、活気や元気さも感じる。

もしかしたら、初めて聞いた広東語が笑える映画だったため、結びついて刷り込まれてしまったのかもしれない。

   

音は表情。

「可笑しい」というと、失礼だと思われるかもしれないが、明るさ・親しみやすさ にも通じる。

いいこと、大切なことだ。

日本人はユーモアがなく、まじめだがおもしろくない、と、よく言われる。

   

同じアジア人でも、南の方の人は、やはり明るくおもしろい人が多いような気がする。

せかせかせず、ゆったり、生きることに余裕が感じられる人たちは、特に。

これは、経済的な余裕とは全く関係がない。

インドネシアも、性格的にユーモアがあっておもしろい人が多かった。

こういう人たちの多くは、話すときの発音やイントネーションのすみずみまでおもしろさが充満している。どういうこと? と聞かれると説明が難しいが、わかっていただけるだろうか。

いきなりユーモアに富んだ話はできなくても、「話し方」を意識したら、おもしろくなるかもしれない。

 

ことばと音

20年くらいまえだろうか。タモリがいろいろな外国語をそっくりに真似て喋っていた。本当は全然話せないのに。

すごいと思った。だれにでもできることじゃない.

 

ことばには二つある。

話しことばと書きことば。

話しことばには音がある。

音には表情がある。

だから知らない外国語を聞いたとき、受ける印象はいろいろだ。

 

明るい感じ、暗い感じ、おもしろい感じ、まじめな感じ、こわい感じ。

若い頃から、その違いに妙に惹かれ、語学がおもしろいと思った。やみくもに、「あなたの国のことばは暗い」などと言われたら、誰だってイヤだ。でも、受ける印象には音声学的な根拠がある。

 

簡単に言うと、例えば、I,E,A,O,U の母音には、それぞれ口の開き具合によって、明るいー暗い の違いが生まれる。

 

私はインドネシア語を使って生活していたが、ずっとあとになって、マレー語を聞いたとき、何だか締まりのないことばだなあ、と感じた。(あくまでも音を聞いたときの印象に過ぎないので、誤解なきよう。)

 

インドネシア語とマレー語はとても似ている。(この関係はいずれまた。)同じ単語が多いが、発音が違う。マレー語では、経済の法則に従い、語尾で口をはっきり開けない音が多い。

マナがマヌと、ルマがルムと聞こえる。「締まりがない」と感じたことには根拠があったのだ。

 

数年前にテレビで頻繁に流れた北朝鮮のテレビニュース。

アナウンサーの話し方は強烈な印象があり、近所のこどもたちがよく真似していた。

  

ハングル語には「有気音、無気音」の区別がある。

同じ「パ」の音でも、唇の前に当てた紙が揺れる「パ」と揺れない「パ」。この区別は日本語にはない。アナウンサーの話し方では、あの厳めしく強い調子に加え、日本人には、有気音がより強調されて聞こえる、というわけだ。

消えた!

2時間も書いていた記事が、消えてしまった。

この前、一度やったので、またそうなると困ると思って「下書き」保存した。

「保存されていない可能性があります」と出て、それで終わり。

うんざり。

地震

またスマトラで地震が起きた。

ニアス島の建物が倒れている様子が目に飛び込んでくる。
ニアス島は、数年前に日本で探検番組が流行っていた頃に「秘境」の
ひとつに挙げられていた。

メダンはドリアンのおいしいところだったが、私の記憶違いでなければ、
「最もおいしいものはニアスから来る」、と現地の人が言っていた。

住んでいた頃、あの東南アジア一帯には地震はない、と言われていた。

何の根拠もなかったと思う。
しかし、伝統的な家屋はもちろん、植民地となってから建てられたものも、
とても「耐震構造」にはなっていない。
日本のように、「いつ来るやも知れぬな」どと思いながら生活はできない。

日本に来る留学生の多くが一番恐れているのが、地震だ。
新潟、福岡、大津波、と、「まさか」の場所に続くとどうにも偶然とは
思えず、小さな地震をよく経験している日本人でも底知れぬ不安にかられる。

経験のない外国人はなおのことだ。
日本語クラスでは、前の晩に地震があった日は、地震の話で始まり
地震の話で終わる。

涙が止まらなくなり、日本に来たことを後悔した、という学生もいれば、
周りの女の子がきゃーきゃー言うのを尻目に、「おもしろかった」などと
強がる男子もいる。

火を消す、机の下にもぐる、ドアを開ける、など、常識的なことを教えるが、全て自分が経験したことのある震度3程度を想定しているにすぎない。
それ以上のものが来たらどうなるのか。
実感できない。

先日、住んでいるマンションの防災訓練があった。

担当者が言う。

「この辺は地盤がいいので、この建物も震度6ぐらいでは問題ない」

「じゃあ、「7」だったらどうなるの?」

小学生の息子は、余計不安になってしまい、昨今そればかり心配している。

備えあれば… しかし、心配しても仕方ないこと、備えられないこともある。そのバランスが難しい。