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インドネシアの織物2

        sumbabiru

 

 

これは、スンバ島というところの織物。

 

これは、先染めではなく、刺繍のように糸を刺して作られている。

 

 

スンバ織りは、インドネシアのイカットを代表するような存在になっている。

 

模様が、思わず 「おもしろ~い」 と言いたくなるようなものが多い。

 

いろいろあるので、スンバ島のイカットを見ていただくといいかも。

 

追々、写真を撮ってご紹介する。

 

 

 

インドネシアの織物

 

ことばを勉強していると、その言語が使われている地域の文化にも興味が沸く。

 

住んでいれば、いろいろな伝統文化にも触れる機会がある。

 

 

     kalimantanmerah

 

やだ、なに? この変な絵は…!

 

などと言わずに、じっくり鑑賞してほしい。

 

これは、イカットと呼ばれる、インドネシアの先染め織物タペストリーの一部。

 

日本の絣(かすり)の仲間だ。

 

詳しくはイカットの作り方を見てほしい。

 

先染め織物は、東南アジア、インドなどのアジアはもちろん、世界各地にあるが、その色や模様は実に様々。 地域によっても違う。

 

インドネシアでは、ろうけつ染めのバティックと並んで有名だ。 

 

イカットは、インドネシアの中でも、島ごと・民族ごとに特徴的な模様があり、よく知っていると、見ただけで「これはどこどこのもの」と当てることができる。

 

人気のあるバリ島から、おみやげとして買って帰れる小物もたくさんあるし、少し前のエスニック、アジアンテイストブームで目に触れる機会も多くなったが、本来は伝統儀式の際に使うためにのみ作られていた。

 

その多彩な色と模様に魅せられ、滞在している間にかなり集めてしまった。

 

写真は、カリマンタン(旧ボルネオ島)のもの。

 

全体像はこんな感じ。 きれいでしょう?

 

      kalimantan

 

日本の家は狭くて壁が少ない。 集めて帰ってきても、かけるところがない。 

 

しょっちゅう取り替えるほどマメじゃない。 というわけで、押入に眠ったままのものがほとんど。 

 

その上、ケースを開けると、例えようのない不思議な「かおり」が…。 

 

観光みやげとして大量生産されたものとは格が違う(?)本物なので、なぜか、ちと匂うのだ。

 

家族には「くさいから開けないで!」といやがられる。

 

せめて、ページ上でどなたかに見ていただけたら、この上なく嬉しい。

 

 

 

停電とことば

               rosoku 

 

硬い話が続いてしまったので、軟らかい話を。

 

 

 

今日の話題は停電

 

日本では滅多に経験しない。

 

たまに、雷が近くに落ちるとバッと消えてしまうが、数秒、長くても1分以内に復旧する。

 

ほんの1分でも、電気があるのが当たり前になってしまった生活では、とても長く感じる。 

 

復旧してからも、いろいろな電気製品の時間合わせや設定の戻しにてんやわんや。

 

如何に電気に依存した生活かを思い知らされ、一瞬反省するが、翌日にはもう有り難さを忘れてしまっている。

 

 

電気状態の不安定な国では、停電は名物だ。

 

私がいた頃のインドネシアのメダンやジャカルタでも、しょっちゅう停電していた。

蝋燭は必需品。 真っ暗になっても、誰も慌てない。

 

ああ、まただ~。 お手伝いさんが、ゆっくりゆっくり蝋燭とマッチを出して来て、テーブルの上に立てる。

 

住み始めたばかりの日本人は、いつ復旧するともわからない停電に、耐えられない。

 

まっくら。 何もできない。 でも寝るには早すぎる。 

 

  いらいら…  いらいら…  いらいら…

 

マッタク。 しょっちゅうこんなことになっても何も感じない現地の人たちってどうなってるのかしら!?

 

というのが、正常な日本人の反応。

 

でも、半年も経つと、ちょっと見方が変わってきた。

 

お手伝いさん、運転手、夜警、みんなで家の前の通りに出て、そこに近所からもお馴染みのメンツが集まり、月明かりの下でのどかなおしゃべり。 とっても楽しそう。 何もないけど、すごく豊か。

 

そんな大勢でなくても、お手伝いさん2人が部屋で蝋燭を眺めながら何やら人生談義。 年上の方が恋愛相談にでものってあげているのか。

 

何にもせかされず、ゆっくりと時間を楽しむ。 そんなことができる彼らがどことなく羨ましく感じられてくる。

 

そう、電気が消えたら、消えても出来ることをすればよい。 テレビもラジオもパソコンもステレオもつかなければ、音も映像もない。 何にも邪魔されずに、純粋な会話ができる!

 

コトバは人間関係の中から生まれ、育つ。 

 

家庭の中で、テレビやパソコン、ゲームに主役を奪われ、会話が減って、その分、人間関係が希薄になった。

 

日本に停電を復活させたら、生活はどう変わるだろうか。 会話に主役の座が戻ってくるだろうか。

 

 

 

 

「ゆとり教育」をめぐって考えること

トラックバックステーションのお題になったので、是非とも一言!

 

東を向けば「西はどうなる」と言われ、西を向けば「東はどうなる」と言われる。 世の常。

「ゆとり教育」の前は、量が多すぎて、表現は良くないがいわゆるおちこぼれがたくさん出た。それに伴い、家庭内暴力校内暴力が大変な社会問題になった。 もう忘れられてしまったのか。

 

戦後日本の高度成長を支えてきたのは、江戸の寺子屋時代から一般民衆に広く与えられた「読み・書き・計算の基礎学力」だと言われている。 確かに、世帯の経済力に拘わらず、公教育によって等しく全てのこどもたちに学びの機会を与えてきたのは、よかった。

 

しかし人は、顔も違う。背格好も違う。性格も違う。もちろん、頭の中も違う。 「等しく」というと聞こえはいいが、消化能力の違う者に同じ物を与えていいのだろうか。 赤ちゃんと大人に同じ量の食事を出したらどうなるのか。 赤ちゃんに合わせた量なら大人は「足りない」と言い、大人に合わせた量なら赤ちゃんは食べきれず、無理矢理食べさせれば消化不良になる。 食事を作る人が一人しかいなければ、手が足りないから、個人に合わせた量の調節はできない。 それなら量をどちらかに合わせるしかないのか。 

 

違うと思う。 量を調節する人手を増やせばいいのだ。 「ゆとり教育」の是非では、量が多いとか少ないとか、そればかりが取り上げられ、実際、多くの親たちが、学校で扱う内容が減ったことで自分のこどもの学力が低くなることを非常に心配し、内容を戻した方がいいと考えている。 (量が増えても自分のこどもは必ず消化できると信じているということだ。 人前では 「うちの子、出来が悪くていやになっちゃう」 などとばかり言いながら、内心、優秀だと思い込んでいるということか(笑)。) 

 

少子化は深刻な問題だ、とか、理数系が弱くなって、教育を何とかしないとこのままでは日本の将来が危うい、とか、わあわあ言われながらも、こどもたちの学級は依然として一クラス40人。 授業参観で見る教室の風景は何十年も前と変わっていない。 唖然とする。 ティームティーチングや少人数指導が若干取り入れられてはいるが、それが今だに、すごく先進的な取り組みだと映る現状は情けないとしか言いようがない。

 

指導者が能力の違う個人に目を行き届かせ、能力に応じた効率的な学習をさせるのであれば、内容が何であれ、クラスの人数減らすことが最優先だと思う。 学習量を短期間で増やしたり減らしたり、そんな無駄な手間と予算を、教員の数増やすことに回したらどうだろう。 

 

長年、語学教育現場で働いてきたが、クラス学習の場合、一クラスが10人か12人か、或いは20人か23人か、では全然雰囲気が違う。 目の届き方も違う。 一人の発言できる機会も違う。 語学の場合は特に少人数であるメリットが大きいが、他の教科でも重要なことは間違いない。 

 

例えば中学の英語。 昔と違い、教科書の内容は「会話中心」「会話重視」になっている。 しかし、30人、40人のクラスで会話の練習などできるわけがない。 結果的に、教科書内容は会話を中心に組み立てられているもののそれが活かせる授業にはならず、かといって文法をしっかりやるわけでもなく、という極めて中途半端なことになっている。 クラス人数の問題を考えずに、学習内容だけをあれこれ議論して生まれた結果の見本だ。

 

赤ちゃんと大人という例えに、ムッとする人がいるかもしれない。 勉強を大変だと感じる子を赤ちゃん扱いするのか、と。 でもよく考えてみよう。 赤ちゃんはたくさん食べられない。 当然だ。 それを悪いことだと思う人はいるだろうか。 たくさん食べられるかどうか。 これは、多くの尺度の中のたったひとつにすぎない。 赤ちゃんには、大人がかなわない素晴らしいところがたくさんある。 

 

学力面で上か下か。 これは人を測るほんのひとつの尺度でしかない。 公教育で一律の内容を与えることは、学力偏重を生んできた。 デキル子が評価が高く、デキナイ子は評価が低い。 そもそも、そういう風潮を改めて、こどもにいろいろな能力をつけさせることが「ゆとり教育」の理念ではなかったのか。 どうも、弊害が取り沙汰されるにつれ、量が減って学力が下がるということばかりが言われるようになってしまった。

 

公教育は、必要最低限の教育だ。 未来の日本の頭脳となる素質のある子は、学校の中で十分対応できないのなら、公立学校とは別のところでどんどん能力を伸ばすことができるように、環境を整える。 これも国の仕事としてすればいい。 

 

そして、学力によって選ばれし一部の者を、「え、じゃあうちの子も頑張らせよう」と誰も彼もが追わず、その子なりの学力とは別の能力を見いだし、評価・尊重する。 こどもひとりひとりが幸せになれる教育を考えるには、何よりもまず、どんな能力も等しく尊重できるという私たちの意識改革が必要。 「まずは学力」という、もしかしたらDNAに組み込まれている(!?)意識から大人たちが自由にならない限り、あるべき教育の姿など議論できないのではないか。

 

私は「ゆとり教育」に全面的に賛成しているわけではない。 でも、今の是非論は、どこか焦点がずれている。 なぜ、今までの流れがるのか、本当に必要なのは何か。 今、こどもを持つ親、 こどもがいなくても、将来その稼ぎによって年金をまかなってもらう現在の現役、みんなで考えたい。 一番迷惑しているのは、大人の決めたことで、あっちになったりこっちになったり翻弄されているこどもたちなのだから。

 

語学の動機付け

ある言語に興味を持ち、力をつけていくためのきっかけや方法は何だろうか。

 

私の場合は、洋楽が流行った時代だったので、たまたまそこから入った。

もっと上の年代の人では、映画にのめり込み、そこから語学に興味を持ったという人も多い。文学少女・文学少年なら、原作が読みたくなってそこから入る人もいるだろう。たまたま外国人と知り合いになったら、その人とたくさん話したくて勉強しようと思うかもしれない。

 

私の場合は洋楽だったので、言語のリズムを感覚的に覚えるならそれが一番!と人に勧めたくなるが、アプローチは人それぞれ。 ある人にとっての動機や方法が、他の人にとってもいいとは言えない。

 

特に語学に興味が沸き、やってみようという強い意欲が出てくるきっかけは、向こうから勝手にやってくるものだ。きっかけを自分で作ることはできない。

 

日本中を席巻する韓流。書店には並べきれないほどの韓流スター雑誌とともに、韓国語入門の本が溢れている。 次から次へと売れていく。 すさまじい。 実際のところ、ドラマをきっかけにハングル語を勉強し始めた普通の人たち、それもかなり人生経験豊かな年代の人たちが、結構ペラペラと喋っているのがテレビに流れて感動する。

 

と、冷めた目で見ているように言ってしまったが、何を隠そう、私も始めの冬ソナ放送にどっぷりはまってしまい、暫く病気が続いていた。(^o^)  その頃はまだ店頭に関連グッズが並ぶほどには流行っておらず、CDは通販で。 回りは放送を見ていない人がほとんどで、会う人会う人に、「絶対見なさい!!」と強要する広告塔だった。 もちろんハングル語にも強い興味が沸き、すぐにNHKのテキストを書店で定期購読注文。 

 

ふと家の本棚を見ると、きれいな入門書が…。 どうやら買ったのは15年前。 旅行前にハングルが読めるように勉強した記憶はあるのだが、本を買ったことは覚えていない。 ページをめくった跡は、始めの文字の読み方と基本挨拶のところだけ。 目前の旅行を動機に、一生懸命、文字と挨拶を覚えたが、旅行が終わったらほったらかしになったという入門書の運命は明らか。 15年も本棚でひっそり眠っていた哀れな入門書…。 まさか、15年後にこんな韓国ブームが来て、そのおかげで埃を払われる日が来るとは、当の入門書様も想像だにしていなかったことだろう。 

 

さて、ラジオ講座を始めたものの、忙しいので(!?)毎日は聞けない。 録音しておいて、まとめ聞き。 始めはおもしろいので、わからないのに応用編まで欲張って聞いてしまったりする。 しかし…、ドラマに取り憑かれているマイブームが下火になるにつれ、まとめ聞きも追いつかなくなり、ほどなく、本屋にテキストを取りに行く頃は、とっくにその月の放送が始まっている、という事態に…。 やはり週1回のテレビの方にしておけばよかったか。

 

「テキストをまとめてとっておけば、また時間ができたとき・気が向いたときに、いつでも始められるさ。」

かくして、再び10年以上埃をかぶりそうな本が増えることになった。

 

言いたいのは、私がどんなに根気がなく語学に向かない性格か、ということではない! 

韓国の人は日本語がすぐ上手くなる。 文法構造が日本語とそっくりだという韓国語を私も勉強してみなくては…、と思っていてもちっとも手をつけるまでいかない。 しかし、ドラマに虜になってしまったり、歌や映画にのめり込んでしまったりしたときに沸いてくる学習意欲はすばらしいものだ。 語学に限らないが、勉強には如何に動機付けが大切かということを身をもって体験する。

(その意欲が長続きするかどうかが問題だけれど。)

 

やりなさいと外から言われたり、やらなければならないという環境だったりしても、ちっともやる気が起こらない。 留学生も同じだ。 近年は、「親がお金を出してくれたから」と言って留学して来る学生も珍しくなくなった。 どうしても日本語を勉強して進学したいとか、将来この分野で役立てたい、という具体的な動機がない学生は、やはり根気の要る勉強にはついていけない。 遅刻や欠席を注意しても、根本的な理由で、よくなるはずがない。 

 

おまけ。 偉そうに学生をとやかく批評できる立場ではないが、言い訳を。

私のマイブームがどうして下火になってしまったかというと、あまりにも韓流が騒がれすぎてしまったためだ。 人と同じことをするのはキライなので、みんなと同じだと思うと途端に興味が薄れてしまう。 私が火をつけた回りの人たちが燃え始めた頃、自分は鎮火しているとはひどい話かもしれない。 ゴメンナサイ。 

しかし、こんなのは語学が続かない言い訳にはならないですね。 スミマセン。

ことばと国籍

ことばには国籍があるだろうか。

 

   日本語ー日本ー日本人

 

   タイ語ータイータイ人

 

   タガログ語ーフィリピンーフィリピン人

 

この辺りはたぶん問題ない。 しかし…

 

  英語ーイギリスーイギリス人?

 

  中国語ー中国ー中国人?

 

異議あり! と言いたくなる人が多いはずだ。

 

英語を勉強している人は多いが、ことばのバックグラウンドとなる文化を知りたい、とすると、どこの文化を考えるのだろうか。 もちろん、言語の歴史を勉強するのであればイギリスであるが、「現在英語が使われている国」を挙げたらいくつになるのか。 アメリカ、シンガポール、オーストラリア、インド…。 植民地化の歴史と切っても切れない関係ではあるが、今現在、それらの国では自分たちの公用語が英語であることをどちらかというと得意に思っている人が多いように感じる。 (もちろん、どの国にも先住民族や少数民族の問題があることを忘れてはいけない。)

 

日本語を勉強する人は、日本という国や日本の文化についても知りたいと思うし、勉強する必要がある。 では、英語はどうだろうか。 「英語」と聞いて、どの国や地域を思い浮かべるか。 

 

これは人によって違うと思うが、日本では、まずアメリカ、次にイギリスを挙げる人が多いのではないだろうか。 アングロサクソン人を見れば、まず英語で話しかけることに何の躊躇もしない。 イタリア人だろうか、ロシア人だろうか、フィンランド人だろうか、英語が通じるだろうか、と躊躇うことなく。

 

英語コンプレックスの一部なのか、アジア人に対しても、どこでも英語が通じると思っている人が多い。 私が「主にアジアの外国人に日本語を教えている」と言うと、即座に「すご~い。英語ペラペラなんだね」と未だに言われる。

 

当然のことながら、英語がわからない人の方が多い。 ただ、共通語として使える可能性が一番高いことばを探すとすれば英語になるかな、という程度だ。 でも日本語のクラスの中では、英語は使わない。 媒介語を使わない、という意図もあるが、それ以前に、わからない・使えない人の方がずっと多く、不公平だからだ。

 

私が接してきた外国人は、欧米よりもアジアの人の方が圧倒的に多く、日本語を学んでいない人とは英語でコミュニケーションをとってきた。 だから、私にとっては、「英語」はイギリス・アメリカとはあまり結びつかない。 無国籍の便利語とでもいう印象だ。

 

 

中国語の威力はすごい。

 

私がいる留学生の日本語学校の国籍多様なクラスを見ると、例えばこんな感じ。

 

 タイ、中国、(香港)、インドネシア、マレーシア、台湾、フィリピン、ミャンマー、トルコ、韓国、ペルー、シンガポール…。

 

(香港は中国に戻ったが英国籍の人も多いし、考え方や文化などを見るとやはり地域として別に扱うことが妥当か。)

 

12カ国の12人。 お互い、他の国には行ったことがない。 しかし、授業が始まった初日から、12人のうちの6人はことばに障壁なくペラペラと楽しそうにお喋りを楽しんでいる…。  こんなことは珍しくない。 各国の中国系の人が、中国語で話すからだ。 他の6人は日本語も英語も話せなければボディランゲージしかないというのに。

 

「あなたの中国語は変だ!おかしい!」などとからかい合いながらも、意志の疎通には問題がない。 この恵まれた状況は、(やむなく頑張って日本語で話すという必要がないから)、残念なことに日本語の学習には極めてマイナスなのだが、彼らが中国語で自由に話すのを見るにつけ、中国語圏の大きさと威力を感じずにはいられない。

 

想像してみよう。 日本人であるあなたが、ある国に留学する。 同じクラスには、あなたが行ったことのないA国、B国、C国からも留学生が来ている。 皆、自分の国で日本語を使って生活している。 お互い知らない国に住んでいる人たちと日本語でスラスラ話ができる! ちょっと想像し難い。 南米に日系の人はいるが、中国語圏の広がりとは比べられない。

 

ことばの不思議を感じる一場面である。

草の根交流

中国や韓国など、日本のすぐ近くの国との関係が悪くなっている。 心配だ。

 

日本で学ぶ留学生や研修生と接していると、いろいろな国のことを直に知ることができる。 それは、私たち日本人と、来日している彼らの間だけではない。 たまたま同じクラスやコースに在籍することになった彼ら同士の間でも、「国際交流」がある。

 

最近は時代が変わり、主にアジアの諸地域から来る彼らも経済的に余裕のある人が増えた。あちこちの国へ遊びに行ったことがあるという人もいる。 しかし、数えれば、今回日本へ来たのが初めての「外国」だという人が多いだろう。 そんな環境の中で、国や地域の混ざったクラスは、まさに小さな国際社会だ。

 

政治的に関係の微妙な国同士が含まれていると、「大丈夫かな?」と、こちらが先に気を回してしまうこともあった。 インドとパキスタンとか、中国と台湾とか、その他いろいろ。 しかし、顔が見える相手とは何の問題も起こらないものだ。 誰よりも、彼ら自身が、会って親しくなるにつれ、「な~んだ、普通に話せる相手だな」という明るい気持ちを持つのではないだろうか。 クラスの中に小さな友好が生まれることが妙に嬉しい。

 

メディアに流れる国同士の政治問題には、個人の顔が伴わない。 反発感情はどんどんエスカレートする。 だから恐い。 中国はケシカラン? でも、私が知っている中国の○○さんも△△さんも、みんないい人。 日本人と考え方は違うけれど、みんないい人。 そう言える個人的なつながりのある人は、反発心がどんどんエスカレートするなどということはない。 つまり、今必要なのは、顔の見える草の根交流だ。

 

でも、自分にはそんなチャンスがない…。 そう思っている人は、まず市役所で聞いてみよう。 今は、「国際交流協会」というものが、何らかの形で地域にあるはずだ。 地域に住む外国人と話す機会ができるだろう。 広報を見ていると、日本に住む外国人による講演会や料理教室、ホームステイの受入先募集など、実に様々な催しが載っている。 日本語学校が近くにあれば、ホームページをのぞいてみたり、ふらっと遊びに行ってみたり。 日本語会話のボランティアを募っているかもしれない。

 

今までまったく機会のなかった人にとっては、始めの一歩はエネルギーのいることだ。 でも、きっと楽しくなる。 国際問題のニュースの見え方も変わってくる。 

 

国同士の政治的関係と、個人レベルの国境を越えたおつきあいは別物だ。

でも、家にこどものいる人は、ニュースを見ながら安易に「中国は…」「韓国は…」「イラクは…」と断定的な批判をしてはいけない。 こどもは端的に「中国の人は悪いんだ」と思ってしまいかねない。 デリケートなだけに、すごく恐いことだ。 もちろん、歴史的な問題など、いろいろ含めて状況をきちんと説明すればいいし、それが理想だ。 でも、それをしないのなら、何も言わない方がましだ。

女性の年齢

日本では、昔から、大人の女性に年齢を訊くのは失礼だという考え方がある。日本人同士であれば、初対面で話題にすることはまずない。男性同士でも、特に必要がなければ、敢えて触れない。

 

他の国ではどうだろうか。

 

韓国語のテキストによると、韓国では話すときの文体が年齢の上下でまったく違うので、微妙なときには初対面でまず年齢を訊くそうだ。他のアジアの国では、日本と同じだという人もあれば、違うという人もある。同じ国の人で、意見が分かれるときもある。

 

数年前、社会人留学生の中に、マレーシアの女性がいた。40代のキャリアウーマンであったが、その人のことばを聞き、強い衝撃を受けた。 それ以来、「年齢を訊く」ということに対する自分の考えが変わってしまった。 それを紹介したい。

 

初対面での会話のトピック。 「初めまして」から始まり、名前や国、学生であれば専門など。 新しい言葉を習い始めると、最初に扱うのは、たいてい自己紹介だろう。 日本語のテキストでも、数字を導入する目的もあり、ここに年齢の言い方が入っていることが多い。 しかし、運用練習のときに、「実際は初対面で年齢を訊くことは特に女性の場合は失礼なのでしない」 というコメントをつけることになる。

 

そこで、学習者の国について状況をきいたりする。 それまでのクラスでは、「ああ、自分の国でも同じだ」とか、「へえ、日本ではそうなのか」といった反応で終わっていた。しかし、このマレーシアの女性は憤懣やるかたなしという形相で、私にくってかかってきたのだ。

 

「どうして年齢を話題にすることが失礼なのか。 おかしい。 若いときは気にしないだろう。 なぜ中年以上になると、だめなのか。 自分の年齢に自信が持てないのか。 年を重ねるということは、それだけ人生経験を経てきたということで、誇りにすべきことだ。 それを隠すなんて理解できない。」

 

もちろん、授業が始まったばかりの時点だから、彼女は英語で言ってきたのだが、要約するとこんな感じだ。

 

彼女の言うとおりだ。 中学1年の英語の教科書には、 I'm thirteen years old  という文があり、皆それを練習する。 この年代で「恥ずかしい」という人はいない。 20代前半くらいまでは女性でも話題にすることに抵抗はないのではないだろうか。 更に、ず~っと進んで、およそ70歳を過ぎても元気な方たちは、割と自分から年齢を言うことが多いように思う。 「ええっ、お元気ですねえ」 と言われることを期待し、また、誇りに感じるからだろう。ところが、その間はどうだろうか。 

 

年齢を訊くのは失礼? なぜ? 若い方がいいから? なぜ? 若い方がきれいだから? 人の価値は若さで決まる? そうじゃないけど…。

 

理由を深く考えず、私たちは、「女性に年齢は訊かないものだ」と思っている。 もしふいに聞かれたら、ギョッとし、ムッとし、とっさに鯖読んだりする。 しかし、よく考えると、それは自ら、若さというものに最大の価値を置くことだ。 若さから遠ざかることが、自分の価値を下げることだと考えているのと同じだ。 

 

このマレーシア女性は、日本で若い子が妙にもてはやされるのを見て奇妙に感じ、それに異議を唱えたかったのかも知れない。 やたらと「若さ」が偏重される文化- 日本の特徴のひとつかもしれない。 年齢を言わないという女性たちの行動が、不満に思いつつも、自らその文化を育てているのではないだろうか。 そう思った。

 

堂々と年齢を言う。 いや、言うには、堂々と言えるだけの中味を備えているように努力しなければならない。 人生経験、人間の厚み、知識、落ち着き…。 若さ以外の何かを。

 

外国人と接して異文化を感じ、そこから学ぶことは多いが、くってかかってきたこの女性から受けた衝撃は、今までで最も大きなもののひとつだ。

 

 

語学と性格3

語学と性格2 の続き

 

語学の上達に関係する性格タイプ

 

④慎重さ

 

これは、③の社交性とやや矛盾する点もある。

 

留学生や研修生の様子を見ていると、大きく分けて2つのタイプがある。

 

ひとつは、初対面の人に話しかけたり、初級レベルの日本語で日本人と話したりすることに物怖じしないタイプ。当然、もともと話し好きな人が多い。ここでは勇敢タイプと呼ぼう。

 

もうひとつは、恥ずかしがり屋だったり、もともとあまり話し好きではなかったり、或いはプライドが高く、間違えることを気にするタイプ。ここでは慎重タイプと呼ぼう。

 

勇敢タイプは、社交性で合格。覚えたばかりの初級の日本語で、恐れずバンバン話しかける。通じる。楽しい。もっと話す。この循環で上達する人が多い。

 

では、いいとこずくめかというと、そうは行かない。このタイプは筆記のテストをすると、細かいところで間違いが多い。でも、話すときに通じるから、それで十分だと思ってしまうと、ブロークンなまま定着してしまう。初級の文法がいい加減だと、そのあとガクンと伸び悩み、上がっていかない。間違いも早いうちに直さないと、直せなくなる。

 

「話す力」は話題によって変わる。日常生活で必要な会話は、この勇敢タイプが有利だ。語学の練習相手となる新しい友達を獲得する力も備えている。でも、「一見ペラペラ」であることの危険性に本人が気づかないで、「あら、日本語が上手ですねえ」ということばに「いいえ、まだまだです」と言いながら、内心浮かれていると、いつの間にか慎重タイプに追い越される。日常会話以上の難しい話題、抽象的な話題でことばが出てこなくなる。

 

慎重タイプは、筆記の点数が良い場合が多い。このタイプは間違いが自分で許せないので、間違わないようにいつも気をつけている。話したいという気持ちはあっても、間違ったらどうしようという気持ちが先に立ち、話すときにことばが進まない。「間違えてもいいから話してみましょう」というアドバイスはあまり意味がない。性格だから、そんなに簡単には変えられない。だから、慎重タイプの発話力は、初級レベルだと勇敢タイプにかなわない。全然話せない人の筆記試験の高い点数を見て、本当に同じ人だろうか、と疑いたくなることは多い。

 

でも、慎重タイプはコツコツやっていくうちに、次第に自分の語学力に自信をつけてくる。勇敢タイプよりはだいぶ遅れて、話すことに慣れてくる。そうなると、土台が強固な慎重タイプは初級のあともしっかり知識と運用力を同時に積み上げていくことができるようになる。

 

日本に来て1ヶ月強の短期集中の日本語学習をし、そのあと仕事や研修で日本語を実践で使っている外国人を見ると、このタイプの違いが見事に表れるケースがある。1年後に会ったとき、勇敢タイプの日本語が当初とあまり変わっていない(大きな進歩がない)のに対し、当初は筆記の成績は良くても全く話せなかった慎重タイプの人が、ものすごく上手くなっている、というケースだ。

 

もちろん、実際には両者の真ん中に位置する人もたくさんいる。でもどうだろう。自分が外国語を学ぶときにも大いに参考になることではないだろうか。

私自身、インドネシア語に慣れてきた頃、簡単なことしか話せないのに、現地の人に「上手いねえ」と煽てられていい気になっていた時期があったと思う。きっと、間違いだらけのへんてこなことばで喋っていたことだろう。

 

 

表現の違い

sakura

 

習慣の違いの続き。

 

習慣とともに、ことばの使い方や表現にも、何となく違和感を感じることがある。

 

今は使う機会もなく、すっかりさびついてしまったインドネシア語。(と言っても、もともとそんなに上手かったわけではないので誤解なきよう。日常生活で用が足りていた程度。)

 

意味はわかるのだが、何だかおかしいといつも思っていた表現がある。

 

① 「このペン、貸してくれる?」

   「いいよ (Boleh)」

 

これは問題ない。ではこれは?

 

② 「バス停まで一緒に行ってあげようか」

   「いいよ (Boleh)」

 

もちろん、この「いいよ」は遠慮して断るときの「いいよ」ではなく、①と同じ「どうぞ」という意味のものだ。

自分から許可を求めるのではなく、親切心から相手に何かを申し出たとき、「そうしてもいいよ」と言われるとムッとする。しかし、インドネシアの人がこの言い方をするのを、よく聞いた。「この言い方」というより、「いいよ」という表現を①の場面でも②の場面でも同じように使える、ということだ。なぜだろうか。

 

後年、何語だったか忘れてしまったが、アジアの他の言語でもこのような使い方をするものがあることに気づいた。不思議で仕方がない。でも、私の浅い知識内でのことなので、捉え方が間違っているのかもしれない。どなたか「真相」をご存じだったら教えてほしい。

 

 

 

もうひとつ。

学生の頃に向こうに遊びに行って、学生仲間と何日かぶらぶらした。

会うたびに聞かれる。

 

「どこから来たの?(Dari mana?)」

「日本から (Dari  Jepang)」

 

ところが、前の日に会った子がまた同じことを聞く。

「????! 日本から」

おかしいなあ、とは思いながら、仕方ないからまた同じように答えた。

でも、その子は友達と顔を見合わせて笑っている。

 

どうも、「どこから来たの?」というのは、日本で言えば、「あら、今日はどちらへ?」に近い、ただの挨拶なのだ。これも、確認していないので、どなたかご存じだったら確実なところを教えてほしい。でも、もし私の理解が合っていれば、表現とは何とおもしろいこと!